『尻尾の話』






「先生、内緒のお話があるの」
「ん?なに?」
「これ」
「…」
「あげる」
「へ?え?ちょっとまて、これは…」
「あげるよ。お母さんがね、先生に差し上げなさいって」
「な、なんだってこんな…」
「その代わりね、お願いがあるの」
「え?」

「――。」

「いや、俺は…その」
「…んじゃ、いいよ。しばらく『預かって』。考える時間も差し上げなさいって言ってたもの」



私は、そこまで聞くと音を立てないようにして職員室のドアから離れ、すぐそばの角を曲がってまた息を潜めた。
結局今年もまたあの子の餌食になる先生が出るようだ。
毎年毎年、文字通り学習しない子だと思う。
だからといって私が首を突っ込んでかきまわすようなことでもない。
少し悔しい気もするけれど、彼女と私とでは(幸いなことに)将来の夢もぜんぜん違う。
教員の汚職を暴くことで逆に私の方に火の粉が降りかかってくるのも心底嫌だし、どちらにしろそんなことをする価値もなかった。
私は自然を装って反対方向の下駄箱へと向かう。
肩から掛けたかばんが、教科書の重みでぎしぎしと音を立てた。


彼女がそんなことをしていると気づく事自体はそれほど困難でもなかった。
むしろ中学に入り、出席番号が近かったせいで席がすぐ後ろになった時からぼんやりと感づいていた。
彼女はいつも授業など上の空で携帯メールばかり送っている。
放課後は別段部活などに入ることもなく、彼女のお金目当てで集まってくる人間達と毎日深夜まで遊びまわっているという噂ばかり聞く。
実際私も一度、予備校の後で見かけたことがある。
顔を真っ赤にしながらげらげら笑いあっていたからお酒でも入っていたんだろう。
それなのに、彼女の成績はほとんどが5だった。
定期テストだって、限りなく真っ白で提出していた(私が一番後ろで答案用紙を集める係だったからこれは確か)のに。
なら彼女がそんな成績を許される道は脅迫か賄賂しかないだろう。
今日、偶然にも立ち聞きした『交渉』の内容からするにきっと後者の方だろうと思った。


私は道端の小石を思いっきりけりながら帰路についた。
…やっぱり悔しいのだろう。我ながら何をしているんだと馬鹿馬鹿しくなった。


玄関で、飼っている犬が迎えてくれた。
こいつは家族の中でも一番私になついてくれている。
それは私がいつもこいつの世話をするからで、半分はやっぱり『えさをくれるから』だからなんだろうけれど――
やはり尻尾を千切れんばかりに振りながら飛びついてくる姿は愛らしい。
「ただいま」
居間には適当に帰宅を知らせ、階段を上って自室に入る。犬も後をついてきた。
鞄を放り投げてベッドで犬を眺めていると、疲れも相まってか変な考えが浮かんできた。


もし、人間に突然尻尾が生えたらどうなるんだろうか。


犬っていうのは一番感情を見分けやすい生き物だ。
心がそのまま尻尾につながっているに違いないといつも考えている。
もし人間の心が突然表れた尻尾に直通したら、きっと面白いことになるだろう。

まず、大掛かりなうそはつけなくなる。はったりも出来ない。
遅刻の言い訳もできないし、浮気もできない。
そこらじゅうの大人や子供がこっぴどく叱られ、そこらじゅうの恋人達が分かれることになる。
ちょっとした発言でも尻尾の具合でどんな気持ちで言っているかが解るから、きっと外交を予定していたお役人達はお互いに怒り狂って戦争を始めてしまうかもしれない。(それはちょっと、っていうかかなり困る事態だけど)
すぐに事態に対応した発明品とかが出てきてしまうだろうから長く続きはしないかもしれないけど、それでも世界が一時的に本当の姿を見せるのは傍観している分にはとても面白そうだ。


――あの子からお金を受け取った先生は、どんな尻尾でそれを受け取ったんだろうか。
本心で少しでも嬉しがっていたら尻尾が振られていたんだろうか。


「ご飯よ」

どことなく疲れた声が私を呼ぶ。
お母さんの尻尾は今微かに揺れているんだろう。

私はまた適当に返事をして、犬をつれて階下へ降りた。








次の日の朝、私はまだ尻尾の妄想と共に登校していた。

校門で挨拶している生徒委員会の人。きっと尻尾は昨日のお母さんと一緒。
本音、『めんどくせーなやってらんねーよはっきしいって。』

何をしたのかこっぴどく叱られている後輩たちの尻尾はきっと普通に振られているだろう。
話なんてまったく聞いていないに違いないから。

もしそれが相手に知られたら、と、想像してみればしてみるほど面白くなっていた。
この調子でもし街中に出て行ったら――


此処まで考えたところで私はひとつの問題に直面した。
目の前で、私に手を振る生徒が一人。
彼女は一緒に居た人たちを置いて、私の方に駆け寄ってくる。
「今日はちょっと遅かったのね!それにぼーっとしすぎじゃない?さっきから手を振ってるのよ、なのに気づいてくれないし」
「うん、ごめんね。ちょっと眠くて」
彼女は禁止されている化粧で彩られた顔で、偽りの顔で、私を見て笑った。
そんな彼女を見て、私は言う。

「ねえ、突然聞くけど、私のこと好き?」


『私は、紙切れで未来を開こうとする屑の様な貴方が大嫌いです。』


彼女は少し驚いた顔をすると、やだぁ、とかいやにおばさん臭い一声と共に
「当たり前じゃない、大好きよ」
と返す。


やっぱり尻尾がないほうがいろいろと都合が良いんだろう。
むしろ、尻尾がないからここまで発展できたのかもしれない。


「良かった。」
「もう、いきなり何?やっぱり寝ぼけてるんでしょう!」



そう、この話はもう私だけのもの。
私に尻尾はないのだから。



「そうかもね。」

『早く文無しになって、如何に自分が時間の無駄か思い知ればいいのに』



――私は、にっこりと、微笑んだ。




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